札幌からの汽車通学

父が復員し、鉄道に復職した。1週間ほど後には江別から札幌の鉄道官舎に引越した。困窮と過密な二世帯の共同生活から漸く解放された。札幌の高校はどこも満杯で転校生を受け入れる余裕は無く、転校は欠員待ちの状態下にあった。止む無く札幌から岩見沢へ汽車通学をすることにした。朝6時15分に家を出て、札幌駅から乗車する。往復の車内が勉強の時間となった。

 

朝の列車は函館始発で樺太からの引揚者が大勢乗っていて、札幌辺りで支給されたのか皆同じ朝食を食べている。DDTの匂いと朝飯の匂いが混ざって車内に漂っていた。帰りの列車には農村へ買出しに出かけた人たちが大勢乗っていた。米は統制の対象なため、自由に運ぶことは出来ない。車内の検査を免れても、札幌駅で没収される恐れがあるため、米を車内で小分けにして体に巻きつける人も居た。経済警察官の取締りは常時ある訳でないので、運が良ければもうけものだ。

 

お菓子の戦前・戦中・戦後

現代では「北海道はスイーツ王国」とまで言われているが、私たちの子供の頃、戦争を挟んで食料不足が大問題だったので、菓子どころの話ではなかった。

私が国民学校2年生の頃(1940年)までは、お菓子屋さんに行けば、種類も量も沢山あった。セロハン包のカステラ、きびだんご,大賞飴、新高ドロップ、板チョコなどは遠足のお菓子だったし、スキーにはウィンターキャラメルを持っていった。夜店の「お焼き」、五番館の「ドーナツ」売り場は今も脳裏にある。

国鉄にいた父の出張帰りの土産は札幌駅の「柳もち」、「苺もち」、江別の「煉瓦餅」、池田の「バナナ饅頭」、登別温泉の「ひょうたん飴」が定番だったし、内地(本州)へ行った時は青森の「わっぱ飴」(木の曲げワッパに入った水飴)、「南部煎餅」だった。

開戦2年後頃から菓子が徐々に少なくなり、和菓子などは販売量制限に始まり次第に姿を消していった。

それでも、旭豆や飴があった。「旭川は軍都だから特別なんだ」と大人たちが言っていた。軍隊の酒保には羊羹があって、偶に口に出来る時は薄く切った一切でも貴重だった。

甘みに対する憧れがあり、昔の婦人雑誌の付録に載っている菓子の絵に、つばを飲む程になっていった。干し芋、干し柿は貴重品にも見えた。あの頃何故か干しバナナがあった、黒っぽい姿はかえって異様に見えた。

初めは米でその後はトウキビとか大豆を加熱圧縮後一気開放して膨張させた菓子、これは破裂音が似ているのでこの機械を子供たちは「バクダン」と言っていた。サッカリンなどの人工甘味料で味がついていた。

バクダン菓子も無くなると、甘味の最後はカボチャだ。米不足と重なり毎日のようにカボチャを食べた。ついに顔も手も黄色くなる。大勢の子供が「黄色人種」だった。

戦後、空き地でも道路際でも腹の足しになるものを皆が作り、買い出しでも物々交換でも闇取引でも、ともかく生きるための知恵をめぐらす暮らしが続いた。「ナッパ粥」でも「芋入り飯」でも「すいとん汁」で過ごしても、ちょっぴりでも甘いものが食べたかった。

戦後、進駐軍が入ってきて、小麦粉、砂糖、脱脂粉乳、乾燥卵が米に代わって配給されることがあると、日常の食生活に少しずつ変化が出てきた。「カルメラ焼き」を食べた時の感激、進駐軍のGIがばら撒いたキャンデーの甘さに驚いた。

父が見よう見まねで作った「麦芽水飴」、砂糖大根を煮詰めた甘い汁など、甘いものが口にできるようになった。

自家製の干したトウキビを手回しの粉ひきで、ソバを石臼で、粉を作り少しの麦粉を混ぜいれて自家製のパンを作っていた。

初めは蒸しパン、フライパンで焼くパンだった。最初の電気パン焼器は木箱に鉄板を貼り電気を流した超原始的なものだった。その後長く使つたのは中央に円筒形のある鍋で脇に取っ手のある上蓋がついたジュラルミン色のパン焼き器だ。私と同世代の人はほとんど思い出すだろうこのパン焼き器こそ粉食の始まりだ。上手にパンが焼ける様になった頃から、次第に食料の量がそして質が上向いてきた。

そして、子供たちが大好きなお菓子も少しずつ姿を見せ始め、新しいお菓子も出るようになっていった。

丸井今井札幌本店の歩道から見える売り場で、機械が「とうまん」を自動で焼くのをいつまでも眺めたのは、操作の面白ささることながら、この様なよい時代になったのが嬉しかったからだ。

 

 

興味深い米国文化

終戦直後は恐怖の対象だった進駐軍だが、時間が経るにつれ異文化に対する興味の対象となってきた。

札幌進駐後、大通公園西3丁目、現在北洋銀行前の乙女の群像の辺りに、西向きの教会が建てられた。その教会は後には映画館としても使われていた。「OFF LIMITS」の標識があった。

大通り西4丁目に広場があり、米兵がソフトボールをする姿を良く見かけた。始めてみる野球に似た球技に大勢の市民が見物し、好プレーに拍手を送っていた。スクェアダンスも初めて見た。大きな声で踊りをリードする人がいて、掛け声にあわせて様々にフォーメーションが変わる。楽しい音楽と男女の見事な踊りに「陽気なアメリカ人」を垣間見る思いだった。

見物人にも踊りに加わるよう促し、指導をしていた。暫くすると指導者のニブロさんは人気者になっていた。

北1条西4丁目、札幌グランドホテルの南角にCIE図書館が出来た。駅前通りで市役所の近くの別格の地にあり、通りから内部が良く見え、ここは日本人も入館できた。本屋の様に棚に本が並んでいて、自由に手にとって選ぶことが出来た。当時の札幌の図書館は読みたい本は引き出しの函にあるカードから書名を書き出し、係りに渡し、名前をよばれて本が渡される、閉架式だった。

全部洋書だが、色とりどりの雑誌も沢山あり、広告を見るだけでアメリカの生活や社会を見ることが出来た。広告は未だ白黒写真で、豊かな色彩の絵画が主流だ。乗用車もシボレー、ナッシュ、ポンチャック・・・が。電気冷蔵庫には涎の出そうな食料が一杯。

CIE図書館に成る以前はこの場所は進駐軍の食堂だったとように思うが、隣の進駐軍に接収されていたホテルの食堂だったのかも知れない。はじめて見るカフェテリア式が珍しく、ガラス越しに歩道から眺めた。トレーに山ほどに盛ったご馳走にアメリカの裕福さを深く感じた。

「リーダーズ・ダイジェスト」というアメリカの雑誌の翻訳版が発刊され、情報に飢えていた国民に大変人気となり、発売日に列が出来た。

進駐軍向け放送で流れる音楽は、当時の若者を現実離れの甘美の世界に誘ってくれた。

 

札幌三越百貨店

札幌市内で進駐軍に接収された建物は沢山あったが、三越もその中の一つである。札幌市内の中心地にある一等地にある建物だ。窓から見下ろすGIの姿が見えた。

売り場を失った三越が移転した先が、大通りに面した豊平館とつづく札幌市民公会堂であった。この建物も進駐軍に接収されていたのを引き継いで、昭和21年に店開きとなった。売り場は公会堂が主で、一階に文房具、化粧品、二階に雑貨、衣類、瀬戸物などが僅かばかりの取り扱いで、照明も明るくない、デパートとは名ばかり寂しいほどだった。売り場の目立つ場所に、ガラスケースに入ったお宝物が並んでいた、お宝とは物々交換の品物だ。酒、食用油、石鹸、地下足袋、長靴他いろいろ当時の貴重品が出品されていた、品物の下のカードには交換したい希望の品名、数量などが書かれていた。羨望の眼で見つめるが、交換できる品物は無いのが一般の客だ。

地下食堂にはフスマ(製粉の際にはがす麦の皮)入りのパンとか緩めの団子の入った汁が売られていた。公会堂の店は1年半ほどだった。

もう一方の丸井今井百貨店(現在の本館)も下層階のみの営業で上層階は何処かに貸していたのか閉められていたと思う。

 

進駐軍

我が家が札幌へ転居したのが昭和21年の半ばであったので、既に札幌には米軍が進駐していた。3年8ヶ月敵対した相手である。

初めは恐ろしさがあったが、豊かな国の様々の文化にふれ、かけ離れた物量と贅沢さに驚かされた。兵隊を近くで見ると、上背があり、大きな体に圧倒されそうだ。街中をジープで走りまわるGIの姿は何故か格好良く見えた。外出着のジャンパーに折り畳みスタイルの軍帽、ピカピカ光る軍靴、ポータブルラジオを手にして街中を歩くGIもいた。女性軍人が乗用車を運転しているのを見た時は強烈な衝撃だった。

真駒内にキャンプクロフォード基地局があり、札幌市内にも多くの建物を接収して、占領政策に当たっていた。

札幌駅にRTO(鉄道輸送司令室)、札幌グランドホテル(軍幹部の宿泊)、三越百貨店、朝日生命ビル、札幌逓信局(陸軍病院)、札幌鉄道倶楽部など。

その他にも、現知事公館、旧松竹座、苗穂補給所、北一条東一丁目の教会辺りの建物は記憶するところだが、まだ他にも民間の邸宅が接収され使用されたようだった。

 

汽車通学時の記憶

自宅から札幌駅までの通行道路の記憶を辿ってみよう。

自宅を出るのが朝6時15分。南に向かうと、元村に通じる通称三角通りがある。街角に何でもある大きな店があった。三角通りで右折し、進むと製麻工場の女子宿舎があり、薄暗いうちから大勢女工さんが工場に向かって行く、製麻工場の煙突は大きく高かった。札幌駅に一番近い踏切を渡る。陸橋は未だ無かったので遮断される時間が多かった。駅前は広場になっていて正面はルネッサンス風の木造の駅舎だ。この駅舎は現在、北海道開拓の村の正面玄関になっている。

正面玄関の他に左右に入り口があった。左手に手荷物小荷物の扱い所、右手に駅長室、進駐軍のRTO、中央が改札口だったと思う。左手の出入り口近くに一段高い台があり靴磨き用の椅子あり、客の米兵が靴磨きをさせていた。

駅はいつも大勢の乗車客で混雑していた。

出札口は正面の左手にあり、その内側近くに経済警察が押収した買出し食料品が積まれていた。

ホームには機関車に客車が一両連結したままいつも止まっていた。進駐軍の専用車なのだが蒸気暖房で執務していたのかも知れない。長く編成された進駐軍の列車が停車していることもある。寒い時期にも拘らず、食堂車の中ではTシャツ姿の兵隊がご馳走を食べていた。

苗穂駅を発車して直ぐに畑になる。近くにあった進駐軍隊舎の兵士がP嬢と逢引する場所だと友人が教えてくれた。

白石駅も厚別駅も周辺には家屋がある程度で農地が続く村の風情だった。

 

アメリカの物資

米の配給制度は危機的状態にあり、遅配があり、米の代わりとして麦類・豆類・雑穀・芋などで補われていた。その頃米の代換えとして米国食品が配給された。砂糖、パイナップル、トマトなどの果汁、脱脂粉乳、フレーク状の乾燥ポテト、カルフォルニア米などがあったと思う。軍用の転用だったのか、モスグリーン色の大きい型の缶詰に入っていた。待望の砂糖でカルメ焼きをした。

また、米国から救援物資として古着の衣料品も大量に贈られた。大型のサイズながら様々の洋服、ズボンがあった。何年も後でこの援助物資が日系米人が中心としたボランティア団体が取り組んだ事業だと分かった。

特に北海道は飢饉続きで自給率が国内で最低、衣料品も不足の時期だったので、正に干天の慈雨のありがたい物資だった。

 

寸描

●女性の服装の次第に戦時色が薄れ、主婦は着物が普段着になってきた。戦時中パーマネントが自粛され、美容とは無縁だったが、頭の前方に2・3本棒天状に丸め、両脇の毛髪を渦巻状に引き上げる髪型が流行り、見栄えを考える余裕が出てきた。

綺麗な布の袋に木製の取っ手をつけた「木口」が流行った。女性は子供も大人も女性らしい言葉で会話するよい時代が未だあった。

●GIがチューインガムを噛むのがやたらと気になった。ある時、家族が基地で働いている友人が、チューインガムとコーラを持って来たのを、数人で分け合い、初めて口にした。コーラは薬臭く、美味いとは思えなかった。

●GIと一緒のスカーフを被ったり、巻きつけたりした派手な化粧と肩パット入りの服装をした女性が目立つようになった。パンパンと呼ばれる一種の職業婦人だ。その内専属関係の女性はオンリーと言っていた。皆じろじろとは見ないものの気になる存在だ。回りの目は努めて気にしない様子で、通じるらしい言葉で楽しげに寄り添う時の人だった。