高等学校 函館

様変わりした高校

学校教育が大変貌していた。前年の昭和23年に6・3・3制が実施され、中学3年生修了者は高校1年生となった。

そして翌昭和24度から、我々高校生としては大問題である小学区制導入と、男女共学が実施された。

函館市には公立高校が男女別に4校あった。その内道立の男子校と女子校の2校と市立の男子校1校を残し、在校生を地域別に割り振りした。生徒の住所所在地により、行く学校が変わることになる。区域割の線引きにより、学校や教えを受けた恩師との別れ、共に学んだ親友と別れなければ成らないこととなる。また母校が閉校することにもなる。特に、進学校の誉れ高い学校からの分別には、わだかまりが強かった。生徒は分別配置されるが教師の再配置が無かったからだ。学力低下を心配する親も居ただろう。

騒いでみても元に戻らない。大きく舵を切ったからには新たな方向に向かって全力を傾注するしかない。校章も校歌も新しくなった。思春期を迎えた生徒にとって男女共学はインパクトが大きかった。国民学校3年生以後の男女児童は別学級だったうえ、戦中の厳しい男女観を経ての男女共学なので戸惑うこと大であった。

男子は粗野な言動も憚ら無ければならない、女子に成績の劣等さをさらすのも格好が悪い。それでも男子生徒は女子のことは関心の無い様に装いながら何処かウキウキしていた。教科によっては男女別であった。共学して初の運動会はクラスの絆を強めた、その頃はまだフォークダンスは無かったが運動会のアトラクションには仮装行列があった。各組とも男女が力を合わせて取り組んだ。わが学級は「カルメン」だったが、行事のお陰で会話も次第にできるようになっていった。男女別の球技学級対抗試合では夫々が懸命に応援した。演劇部の公演も思い出の一つだ。

結果的実にみて共学によるプラス効果があって、当初の心配は杞憂だった。

函館市に限らず、この学区制切り替え時期に該当した高校3年生と2年生は、卒業後の卒業名簿や同期会は全校合同で行うのが特徴である。

 

苦難の高校

戦後の教育制度の大改革が始まったその時期は、我が家にとっても変化の多い時期だった。その為高校生だった私にとって、苦難の時期に重なった。高校1年、父が復員し国鉄に復帰した時に札幌の高校へ、札幌二高に転校して半年も経っていない昭和24年9月転勤族の父が札幌から函館に転勤することになった。親の移転に伴い子供も従うのが当然の考えで、まして親が単身赴任するなどありえない時代だ。担任に相談したところ小学区制となれば、親と離れて札幌に残るのは難しいという。

そして、函館中部高校へ転校した。ところがカリキュラムが異なるため学習に付いて行けないことがわかった。1週間ほどで札幌の学校へ逆戻り復学せざるを得なかった。小樽の祖父宅から通学し、2年生は札幌二高の課程を修了することが出来た。

学区制が本決まりとなって、高校3年の新学期に学校名も改まった函館東高校に転入したのだった。学区制と男女共学に対する大論議を乗り越えて、学区内の4校からの寄り集まりの男女生徒が出来たばかりの教室だった。3年生は7組、全体で250名ほどであり、6割が男子生徒であった。

学校制度の変革の時期が進学を考える大事な時期の高校時代であったが、私の場合繰り返し転校を余儀なくされ、多くの苦難を味わったのだった。勉学もそうだが友達との縁が薄いのが大きな損失だった。

 

思い出の授業

緑の木々に包まれた広い校庭や校舎、牛もいる普通高、友との交わり、これらは記憶に留まるところもあるが、教室での授業の記憶は残念ながら殆どない。ただ、微かにあるのが国語の授業だ。

国語の教師のW先生は担任でもあった。教科書に源氏物語の「須磨」、源氏が須磨に落ちのびる侘しさを感じるくだり。

物寂しく優雅な出だしで、古文の解釈が主であったと思う。長い髪の女子が古文をすらすらと読み驚いた。

その頃、読みやすい現代語訳も無い時代だったので、源氏物語が途方も無く様々の手段で女性遍歴をすること、娘を帝の后にするために葛藤する貴族たちの物語であるとは知らずに終わった。

もう一人のI先生は北海道方言の言語研究者だったが、ある時北海道弁について語ってくれた。道外各地から渡道して各地に落ち着いた人達の出身地のお国言葉がその地に残って現在の北海道弁になっていると、方言の壁を低くするために共通語があると。私は道内各地を転住したのと、家系も浜出身も居て多様な地方言葉に接してきため、殊のほかI先生の授業は興味深かった。

通学路

函館市に来て初めに住んだのは松蔭町だった。ここから学校は家の前の通りを東に行くとすぐ近くにあった。そのため下校の帰り道は寄り道などできない。しかし、3ヵ月後に市内海岸町の官舎に転居した。函館駅から少し亀田寄りの函館港側にあり、東高校までは3.5キロ、登校には最短距離の道を急ぎ足だが、帰りのルートは気が向くままだ。五稜郭の堀端では函館戦争を思い、ミッションスクール遺愛女学校の前を通ると「若い人」のヒロインがそのあたりに居るような空想をしたりする。繁華街の中心街が函館駅前通りに移り、電車通りを離れると住宅地であり、家も込み合っては居なかった。梁川町を越えた辺りは緑の多いところだったと思う。後の自衛隊の全身である出来たばかりの警察予備隊の隊員が行進していたと微かな記憶がある。

繁華街が時代と共に移動する函館である、いま五稜郭は繁華街だ。当時の通学路を歩いても当時を思い出させる景観は堀の他は殆ど無い。

 

大学受験

高校3年生で進学を希望するのは、学級の半数も無かったのではなかろうか。女子の殆どは就職か家事見習いだ。

学校の進学向けの強化補修があっても、学習塾などは無い時代だ。進学受験雑誌の「蛍雪時代」は全国的に購読者が多かった。「傾向と対策」、「豆単」は大抵の受験生が持っていた。雑誌の付録も要領よく纏まっていたので受験勉強の追い込みに役立った。後の受験戦争とは比較にならないのんびりとした時代だった。それでも、始めて東京方面への修学旅行に行くことになったとき、私のクラスでは「進学組みは行かない」ということになり参加者は女子が主流になった。経済的に余裕の無い時代のこと親への遠慮もあったのだろう。

全国進学適性検査が行われたのもこの年が初めてだった。

東京の大学を志望する生徒には、受験に出発する日、青函連絡船の岸壁に友人たちと見送りをした。大きな声で励ましの声をかけ、紙テープで景気をつけた。船が岸壁から離れ蛍の光のメロディーが流れ中、いつまでも手を振り続けた。

 

記憶の学び舎

小学校から高等学校卒業まで記憶の断片を綴ってみたが、どのステージでも時代の背景と共に脳裏に浮かぶのが友達と校舎の姿だ。幾星霜の年を経て、当時の学校を訪れることがある。当時の校舎が存在しないのは止むを得ないとしても、街の風景がすっかり変貌しまい、記憶にある校舎が納まらない。元の場所に学校が存在するのは未だ良いが,この頃では学校そのものが廃校になってしまう事例があまりにも多い。

私の学び舎を辿ってみると、札幌市北光小学校は元の場所にあるが、地下鉄の駅、区役所が近い街の中になってしまった。

常盤公園に近い旭川市日章国民学校も元の場所にあったが、NHKが近くにあり周辺の景色は当時の面影が無い。小樽市手宮国民学校も元の場所にあった、昭和38年に全焼して、元の校舎とは結びつかない。生徒数の減少で複数の隣接する小学校が統合する様である。

岩見沢中学校・高校の校舎も昭和24年に焼失し、元の場所には無い。南東へ2キロ離れて岩見沢東高校が建った。

札幌西高校(旧道立札幌第二高校)も昭和35年に火災、中央区の西部に移った。広大な敷地に立派な校舎が建っている。

函館東高校は高校の最後に学んだ学校だった。卒業後訪れたことがあったが、あまり変わらない近接地の中にあまり変わらない校舎があった。しかし近年久しぶりに訪れたところ新校舎が建ち、市立函館高校に学校名が変わっていた。

後で知ったのだが、北海道函館東高校は平成19年に閉校し、北海道函館北高と統合し市立函館高校が誕生したのだった。