高等学校 岩見沢

札幌から汽車通学

父が復員し、鉄道管理局に復職したので札幌市に引越しした。下宿は無理なので、転校するはずだった。ところが札幌の高校はどこも満杯で転校生を受け入れる余裕は無かった。そのため高校1年生は札幌から岩見沢へ汽車通学をすることにした。学友との別れ難い思いもあって、内心汽車通学は嫌でなかったが、母親には苦労を掛けることと成った。弁当を作ってもらい朝6時15分に家を出て、札幌駅から乗車する。札幌からはもう1人同学級の親友が乗った。他に空知農高の生徒が4人居て。乗車時間中退屈することは無かった。勉強も車内ですることが多かった。

 

当時の列車の混みようは並大抵でなく、その極みの時期では、窓からの出入り、洗面所もトイレも満員、乗り口のステップの上、両車両に片方づつ足を掛けて乗る者、機関車の炭水車に乗るものさえ居たのだった。

 

始まった教育制度改革

戦時中の教育に色濃い存在だった軍国主義・国家主義・国家神道に基づく思想は、敗戦と共に文部省の方針と駐留軍の指令により排除された。私たちが中学2年生のときには、新たに教育の憲法「教育基本法」が出来て、6・3・3制、小学区制、男女共学の新たな制度改革が報じられた。新聞紙上には自由、民主主義、平等の文言が頻繁に目にすることになった。

学校制改革は一段目として6・3・3制への切り替だった。小学校6年は変わらないが、中学は5年が3年となり、義務教育になった。そして高等学校が3年となる。簡単に言うとこれが6・3・3制である。

制度改革は学校名の変更に始まった。北海道立岩見沢中学校が北海道立岩見沢高等学校になった。旧中学から新高校への切り替えでは、中学3年終業生は高校1年生になった。この年度、中学5年生は旧制中学校の卒業と新制高等学校3年生とを選択することが出来た。

切り替え当時は、同じ学校に居て、校名と学年の呼称の変更程度と軽く考えていて、小学区制、男女共学という大問題が起きるとは予想していなかった。

 

 

 

 

前進座公演

初めての演劇との出会いだった。多分高校1年生の頃だ。あの有名な前進座がわが高校の屋内運動場で演劇を公演したのだ。

この劇団は地方公演で全国を回っていたのだが、大きな都市でもない岩見沢市の高校で演劇を公演するとあって期待が大きかった。出し物は「ベニスの商人」。ごく簡単な舞台装置だが衣装、メークアップは本格的である。筋書きは誰もがよく知っているので興味は尽きない。高利貸しのシャイロックと裁判官ポーシャとのやりとりの場面は今でも思い出せる。運動場一杯の全校生は中央の本格演劇に初めて接し、大いに感銘を受けたのだった。

 

寄り道

戦後も日が経つにつれ学風に軍事色が薄れ、登下校の通学路通行遵守も無くなってきた。特に帰路は本屋に立ち寄ったり、映画館の写真掲示を見たり、闇市露天、大道の物売り、香具師の口上の巧さに感心したり、汽車時間を測りながら楽しむこともあった。

一身上の都合で退職した先生がいた。数学・物理を担当で若く生徒に好かれていたので退職を皆惜しんだ。3月程後に、「○○先生は○○会社の岩見沢支店に居た」と噂が流れた。信じられなかったので、寄り道して友達と様子を探りに行った。 

陽気な時期だったのか、事務所の窓が開いていて外から室内がよく見え、そこに仕事中の元先生のサラリーマン姿が見えた。